2.中国の陶窯
古来中国では陶瓷を焼く「かま」を「窯」あるいは「窰」の2様の漢字をもって表しているが、「窯」という字は「穴」「羊」「火」を組み合わせて出来ており、「窰」の字は「穴」「火」「缶」を組み合わせた字である。
「羊」は、遊牧生活における物質としては最も貴重な必需品であって、その毛皮は「衣」として、乳汁と肉は「食」として最上のものであった。故に「美」という字は「羊」の「大」を示し、「羨」という字は、「羊」という字に「よだれ」という字で「あこがれ」、「羨む(うらやむ)」という意味であり、 「恙」すなわち羊の心は「差がない」無事を意味するように、全てのあこがれの物質の表現とも見るべきであるから、「窯」とは穴の中で、立派なものを焼くことを意味する。
「窰」は、穴の中で「缶(ほとぎ:胴の丸い入れ物から転じて広く土器をあらわす意)」を火で焼く、「陶」すなわち「缶」を勹(つつむ)、原始時代に土器成形が幼稚な頃は、瓢の類である「缶」を泥でもって包み、徐々に外部から燻して焼成した土器を意味するものであるから、陶業としては、むしろこの窰の字の方がより適当であるともいえる。
要するに、古い陶業が地中に穿った単室の穴であったことは、その字の表す意味からしても、また前述したように、商、殷、周代の窯跡からしても立証されるのである。
さて、この窖窯は、焼成に際して水分を呼びやすい地殻を窯壁とするため、熱を吸収して、熱の上昇を妨げるという大切な点において非常な欠点がある。故にこの熱量の消失を避けるため、地上に岩石あるいは土塊をもって壁を作り、器を充填してから上部をアーチ形に土塊で覆って焼成するようになった。
窖窯から地上窯に発達するに従い、勢い窯材料も整えられてきて、その形状等もやがて、地方、地方の諸状況によって各種異なったものになっていくのである。
むしろ、陶業で燃料を焚いて熱を上昇させることは、どうしても熱量の多い燃料も必要だが、燃焼に必要な空気を起すための通風も考慮しなければならない。「燃料」と「通風」まずこの2つが窯焼成において最も大切なことといえるのである。
燃料を効果的に燃焼させ、通風力をよくするためには、製品の焼成室と燃料を焚く燃焼室に分けなければならないが、しかし技術の幼稚な時代においては、焼成室しかなく、そこへ直接燃料をくべて焼いていた。これが進歩するに従い、2室に分けられ、同時にまた通風を取るために、傾斜面に窯を築いたり、煙突を応用するようになったのである。
現在の中国の窯を見渡しても、満州、山東、河北、河南等の平地帯における窯は全て煙突を利用しており、江西省景徳鎭窯においては、窯に傾斜をつけ、更に煙突を用いている。また、南方の江蘇、浙江、福建、広州等の各窯は、全て傾斜面を利用して通風をつけているのである。
なお、窯の構造、大きさ等は製品の大小によっても異なるが、その地方に産出する窯材としての耐火原料の性質等によってもまた差異がある。
かくして、窯の形状、大小、燃料の相違、通風力の強弱によって、各その燃焼状態が変わってくるために、各窯の製品はその出来上がりの上に非常な差異が生じてくる。すなわち、製品の出来上がりは、窯の構造によっても左右されるのである。
現在用いられている中国の各陶窯をみれば、その様式が地理的な関係から、南方系と北方系に判然と大別されている。そうして、江西省の景徳鎭窯は両者の折中ともいえる様式のものである。
ここで、中国の陶窯、すなわち北方窯と南方窯、及び南北折中窯とに3大別して略述すると、次のとおりである。
1.石炭を燃料とし、煙突を有する北中国の平地窯(刊州、磁州、定、博山窯等)(煤窯)
2.薪材を燃料とする南中国の傾斜窯(越州、建、広州窯等)
3.薪材を燃料とする南方と北方の折中窯(柴窯系の汝、鈞、修内司窯と景徳鎭窯等)(柴窯、毛柴窯)
1.北方窯

第10図 中 国 河 北 省 磁 州 窯
北方の平地窯とは、図に示すようにいわゆる饅頭形平窯である。釉を施されるようになった漢、唐の西域系軟釉の低火度焼成に用いられた窯もおそらくこれと同形状の単室のものと思われる。北中国では、ほとんどこの平窯を用いる主な原因は、西域からの伝統とその他地形が平たんである点、短焔性の石炭、または雑草類を燃料とするのに適するためである。(雑草類は、低火度焼成の燃料として用いられる。)
北方は、南方のように多量の長焔性の松柏材をほとんど産出しない代わりに、至るところで石炭を産出し、もっとも石炭層のあるところには大抵良質の陶土層があるので、このような場所には必ず陶業窯が築かれているといってよい。しかし、朝廷の御用窯は必ずしもそうとは限らず、これらは便宜上ほとんどが各都城かあるいはその付近に築かれたものである。
陶業に燃料として石炭を使用するということは、欧州においては18世紀頃に始めて発明されたと伝えられ、我が国においては40年ほど前に、陶磁界の先覚者がこの得点を挙げて石炭の応用を力説したのであるが、その当時の陶業者間では非常に至難のものとして、全く行われなかったのである。しかし、その後次第にその有利な点を認められ、明治40年以降各地に応用されるようになったものである。
しかし、中国においては既に千年以上前においてこれが応用されていたことは、各地の窯を見てもこれを推察することが出来る。「曲有奮聞」に、
「石炭不知如何時、熈寧間初到京師、東坡作石炭行一首、言以治鐵作兵器、甚精亦不云始干何時也、予觀前漢地理志、豫章郡出石可燃爲薪随王郡論火車其中石炭二字則知石炭用於世久矣、然今西北處々有る之其為利甚博而豫章郡不復説也」
とあることから考察して、前漢時代より燃料としての用途を知り、既に唐代における鉄治金に応用しているのであるから、勢い陶磁器焼成用の燃料としても薪材に乏しい北中国では、唐代には既に陶業も石炭を応用していたであろうと想像される。
焼成焔は、通常還元焔と酸化焔とに分けられる。およそ窯を焚くとき、燃料が過剰で通風が少ない時は、「燻べ焚き」すなわち還元焔になり、燃料が少なく空気量が過剰に入る場合は「きらし焚き」すなわち酸化焼成となる。そしてその中間性の中性焔も出来ることは、いうまでもない。
また、北中国において通常用いられている石炭は無煙炭質であるため、酸化焔焼成になりやすく、松、柏等は樹脂が多いために還元焼成になりやすい。
したがって、北中国の平地窯はその燃料と通風の関係上、酸化焔焼成になりやすく、南方の傾斜窯は還元焔焼成の傾向がある。故に、北方窯は還元焔を用いることが至難であるため、釉薬が熔融前のいわゆる中期に烈しい還元作用と強い通風力を必要とする越州、処州窯系の鉄系青磁類または江西省景徳鎭に出るような鮮やかな青花(そめつけ)の類はどうしても出来ないのである。
さて、熱の上昇というものは還元焔焼成の場合は不完全燃焼を起すから、上昇に対する効果は薄く、また酸化焼成でも過剰の空気が入れば、これまた上昇を妨げるものであるから、燃焼に必要なだけの空気量が完全焼成を行い、熱の上昇を有効にするのである。
今、北中国の各窯の構造を考察すると、大体の形状においてその変革は目に見えて著しくはないが、燃料の燃焼法についてはかなり永く研究が積まれた跡が見える。例えば、現在の磁州、唐山及び博山窯などを見ると焚口の構造等は専門家でも奇想天外の思いをすることがある。火床(スロットル)は丸木棒を並べて、その上に陶片を積み重ね、その上で無煙質の粉炭を燃焼し、不完全燃焼の半ガス状で燃焼室内に送り、窯壁に開けられた小穴からの通風によって燃焼室内において完全焼成されるのである。よって、かなり大きい窯内を均一に燃焼させるように考慮さえれている点等は、通風力の少ない窯としては最も効率的な方法といわなければならない。しかし、北方窯の通性として、平地窯であるため通風力が非常に弱いため、熱の上昇が非常に遅く、ひとつの窯を焼き上げるのに1週間から10日間も焼き続けなければならず、冷却にも同様に長時間を要すのである。従って、製品の性状にも少なからず影響を与えているものである。
2.南方窯
南方郡では丘陵が多いため、その傾斜面を利用していわゆる登り窯が築造されており、石灰の使用はほとんど無い。燃料は、ほとんどが南中国いたるところで産出する長焔性の松、柏、杉材の薪を用いている。
そして中国は水運の便が非常に発達しているので、各窯は大抵交通の便利なところに位置しており、従って北方に対して各窯の諸関係はずっと緊密である。
南方の傾斜窯は我が国の登り窯と同じように、トンネル形の窯が傾斜にそって昇っているものと、斜面に階段状にかまぼこ状の部屋が連房式に数個連なっているものとの2種類がある。前者は朝鮮の田舎にある蛇窯、または我が国で現在土管、レンガなどと焼くのに応用している鉄砲窯、真焼窯と呼ばれるものの類であり、その他トンネル状の中に隔壁(しきり)が設けられた有田の古窯等にある割竹窯の類でもある。後者は、我が国各製陶地でみられる連房式の登り窯と同様のものである。大体、前者のトンネル窯は後者の登り窯に比べると、幼稚なものといえる。
これらの窯の発達をみてみると、(①図)の原始的なものといえばこのような窖窯形式のものである。これは、図ようにあまり長くない長方形の溝を傾斜に沿って掘り、地面を壁にして土塊でその上に蓋をしたもので、現在では我が国の信楽、瀬戸等に残っている窖窯と類似のものであろう。(第12図参照)
これが発達して、地上に築かれるようになったものが(②図)である。これは、我が国で通称「大窯」と呼んでいる形式のものである。または窯材料の性質及び通風の関係から細長い地上窯すなわち前記蛇窯あるいは真焼窯(③図)の形式になった。(第13図参照)
窖窯又は大窯の類は、燃料が単に下方の焚口からくべただけであるが、この蛇窯では、焼成の初期はやはり下部の胴木間(火匱)から燃焼させるだけであるが、熱がある程度まで上昇してからは、一定の距離で天井に小穴を開け、ここから「さし木」として熱度の均一を図った。
しかし、これでは窯内の熱の不均一、窯詰めの操作が不便などのため、燃焼室の高さも増して隔壁をある程度の距離づつに設け、あるいは窯の幅を広げて側面から燃料を投入するようになり、その各個の部屋で部分々々に炊きあげるようになった。これを我が国で(④図)割竹窯と呼んでいる。これは、縦に「割った竹を伏せた」形をしており、丁度節の部分が隔壁になっているのである。九州の有田、長崎地方の初期の窯でこの種のものが現在も残っているし、南中国ではこの種のものが現存している。(第14図参照)
なお、割竹窯と同様とみられる(⑤図)の螺貝(さざえ)を縦割りにして伏せたような形の窯もある。すなわち、半円筒が下から一間毎に径が大きくなったものである。これは、割竹窯から階段状の登り窯になる道程のものと見てよい。この図は、瀬戸地方で古くに築かれたものであり、文政年間、陶工、亀井半二の描いた瀬戸の窯図を見ると、この窯を描いている。(第15図参照)
このように、上になるにつれて燃焼室が大きくなっているのは、燃焼の際飛焔の廻り具合をよく考慮したものである。
次に、(⑥図)傾斜に沿って半円筒状のかまぼこ形のものを連房式に伏せて階段状にした登窯がある。これは、品物を多く入れられるように、また火焔の廻りが便利なように考案されたものである。これは、中国では浙江省の龍泉窯、福建省の徳化窯等にみられる。これの創始は、元または明代亀泉窯の製品が輸出されるようになり均一なものを大量に生産するために創案されたものと思う。福建省の徳化窯はこれによって築かれたと考察する。徳化窯は第16図に示すとおりである。
第12図 窖窯(底部及び断面図)
第13図 江蘇省蜀山窯焼成作業 同左窯断面図
第14図 割竹窯(朝鮮成鏡北道会寧面五洞所窯)
第15図 文政年間の瀬戸陶窯(亀井半二描写)
第16図 福 建 省 徳 化 陶 窯
中国の陶窯のうち、薪材を燃料とした蛇窯式傾斜窯の主なものを挙げてみると、
江蘇省宜興窯としての蜀山窯、鼎山窯
これらはいずれも地中の蛇窯式の窯であって、窯壁は地面を利用し、天井はアーチ状に、地上に出ている傾斜もそれほど急ではない。
蜀山窯は茶器とか文具の小品を焼き、無釉のせっ器、すなわち朱泥、白泥の類を焼くから、焼成温度も低く、摂氏1000℃内外である。燃料は焼成火度の関係上、雑草または樹木の枝葉を焚いている。
焼成は酸化焼成であって初め窯の下部から「胴木間 」において十時間あまり、後は天井からの「サシ木」をして、随時上部に炊きあげていくのである。これは朝鮮の蛇窯、我が国の真焼き窯の焼き方と同様である。
鼎山窯は、窯の構造は蜀山窯と大差がないが、大物すなわち水ガメ、火鉢等を焼くために窯は大きく、傾斜も少し急である。また灰釉をかけられたものであるから、焼成温度も蜀山窯に対して高い。大体摂氏1200℃内外である。燃料は石炭と桐材を併用し、「胴木間」には主として石炭が用いられ、上部は桐材が用いられている。
広東「石湾窯」は地上に築かれた蛇窯状の傾斜窯であり、傾斜は鼎山窯と同じ程度であるが、窯は小さい。焼成火度は鼎山窯と同じく摂氏1200℃内外である。燃料は杉の薪材を用いており、還元焼成、酸化焼成のどちらとも言えない焼き方である。
福建省の徳化窯は、初期の窯は蛇窯状のもので燃焼も樹脂分の少ない、桐材等の燃料を用い、酸化焔焼成のものであったが、明から清初めになって大量生産をするようになってからは、窯も階段式のものになり、燃料も松柏材のような薪材を用いるようになり、焼成方法も全くの還元焼成になった。その作品をみても、初期の建白瓷は閃紅色または閃黄色系の肌色、もしくは黄色がかったものであったが、後代のものは還元焼成になったため填白磁といわれる、青白調のものになってくる。焼成温度は摂氏1300℃内外である。この窯で焼かれるものは、ほとんどが彫刻の入ったものまたは「形もの」で、窯の道具なり焼き方なりにかなり注意がはらわれている。
龍泉窯は、徳化窯と同じく階段式の窯であり、燃料には松材を用い、青瓷の窯として有名な窯であるが、現在では青花瓷も焼いている。焼成方法は還元焼成であるが、従来は蛇窯状の窯であり、「大窯」といわれていた。
古窯は傾斜の急な窯であったと思われる。焼成火度は、摂氏1300℃内外である。
第17図 浙江省龍泉県八都窯
2.南北折中窯
景徳鎭がその当時饒州窯と呼ばれていた頃、この窯はおそらく南中国一般に用いられていた登窯と同系統のものであったと推測される。
これが、現在のような折中窯となったのは明初期、ここに御器廠(朝廷の御用窯)が置かれるようになってからと見てよい。
大体、陶磁器製作上大物を作るということは、その成形においても乾燥においてもまた、特に焼成について非常な困難を感じるものなのである。
景徳鎭は明初に御器廠が置かれ、経費に頓着することなく名器、逸品類を作ることを競ったために、いきおい大器製作を志すようになったが、南中国に従来行われていたような登窯では到底磁器の大器を完全に焼成することは困難だったため、次第に大器を焼くのに適した窯としてこの登窯を改造して、幾分北中国の窯の構造を加味して両窯様式の折中ともいうべき様式の窯が作られるようになった。この窯は、大小の差はあるが五代の柴窯系である汝窯、官窯、鈞窯の諸窯を倣ったのではないかと推測される。
第18図 中国江西省景徳鎭府
第19図 景 徳 鎭 陶 業
言い換えれば、柴窯系としての汝、鈞、官と明初期の景徳鎭とは南北折中窯として、同系統と置き換えられると思うのである。
そもそも、「柴窯」は五代末に後周世宗が朝廷の時、河南省奠州に築かれた御窯、すなわち御用窯であるが、雨過天青磁、あるいは陶緑のいわゆる「その青き事天の如く、明らかなる事鏡の如く、薄き事紙の如く、声は磬(うちいし)の如し」として名高いものである。
現在では全く名前ばかり高いものであり、こうした条件を満たした実物は決して見ることは出来ない。従ってこの柴窯については、従来種々の想像論が行われており、帰するところを知らない有様である。しかし、宋代の汝窯、鈞窯、官窯はこの直系であり、そこではこれと同様のものも焼かれていたと推測することが出来るのである。
また、柴窯とは世襲の性が「柴」であることから、宋代になってから初めてこのように名付けられたというのが従来の説である。しかし、これを燃料としての「柴」すなわち薪材を用いたためと見ることが出来る。これについては、最近大谷光端師なり、故中尾博士も主張しておられるが、北方各窯では唐代から高火度焼成を用いていた事、特に柴窯の所在地であった河南の鄭州付近は薪材の少ないところである事から考えると、こういう見方は一見無理のように思われる。しかし、当時南方の優秀な技法は、かなり北方に及んでおり、交通の便も相当に発達していたし、御用窯という点から考えても、多少の無理はあるが、特にこの製品が唐代越州窯のように優秀なものを模範としたことは十分にうかがえるから、柴窯が薪材を燃料にしていたとの想像のみならず、原料等も取り寄せていたとの推論も決して不都合ではない。
また、「柴窯」という名称の点から、現在江西省景徳鎭の窯はその構造が前述のように北方窯に南方の傾斜様式を加味したものであるが、これに対し一般には「柴窯」と「毛柴窯」との2種に命名されているのであって、前者は燃料に松材を用い、上等、中等品の焼成窯であり、後者は雑木枝葉を燃料として、主として粗陶磁を焼いている事実とあわせて考えると、後周柴窯はむろん南方ほど豊富ではなかっただろうが、とにかく薪材を燃料としていた事は十二分に背定できる。
北方では一般に雑草の低火度、石炭と燃料とした高火度窯「煤窯」であったため、薪材いわゆる「柴」を燃料とする窯は非常に珍しく、ここで特に「柴窯」と呼ばれたのであると思われる。したがってこの窯の構造は、北方特有の饅頭形平窯と大差のないものであり、燃料のみが「柴」すなわち松柏材の薪材を使用したのだと思う。
景徳鎭の窯の構造は、これに対し北方特有の饅頭形平地窯とは少し異なり、南方の傾斜窯の様式を幾分加味した徳利形傾斜窯ともいうべきである。
明代の洪武年間、景徳鎭の御器廠に用いられた官窯の窯名に、風火窯、色窯、大龍缸窯、畫(画)窯、青窯などという名称を付けている。(後記)瀬戸における古窯、本業窯、丸窯と区別しているように、様式の小異によって名前が使い分けられていたようである。
なお、以上のような本焼窯の他に、上絵付け窯がある。これを中国では紅炉といっている。往時は薪材で焼いたこともあるが、現在はほとんど全て木炭を使用している。構造は非常に簡単で、古代の円筒状窯の様式に似ている。五彩、粉彩、洋彩等はいずれも800℃以内で焼成し、琺瑯彩は700℃以下である。

