3 陶磁器の彩料
陶磁器彩料の沿革
陶磁器工芸の発達において、「素地」「釉」と共に彩料がその一要因であることはいうまでもない。
人類生存の上に、色彩美に対する憧れがいかに大きいものであるか。
人間生活が、文明につれ、装飾的欲求がこの色彩に求めらている事は当然のことである。
陶磁器工芸の推移も、その彩料の発達によって進展を伺い知りえたともいえる。
陶磁器の彩料の発達は、世界において、エジプト、ペルシアなどの近東諸国がその根源であり、また、近代陶磁として世界を風靡(ふうび)させた多彩瓷の発展も、同系統ともいうべきイスラム系の多彩瓷の発達によるところが多い。
パットラー氏などはその著「イスラミック ポッテリー」においてペルシャの多彩瓷を賛するのに「彼ら陶工の色彩の行使は、純白より最も濃厚なである黄、緑、紫等、その間の各種各様の色調はひとつとして同じものがなく、かつこれらの各色調を駆使して無辺極まりない、調和美を表現し、いかにも音楽の名手が無尽蔵の音律をかなでてよくその階調を保ち、その色彩配合の妙締を発揮させる事は、天然の百花が妍美を競うのを目の当たりにするように、陶工の着想により発想されたとはとても思えない」と推奨している。
陶磁器彩料の沿革は、まずエジプトを発端とするべきで、彩料として偶発的に発色したのは別として、企画的に彩料が応用されたのは、エジプトの青色釉が最初であろう。
近東諸国では、地勢、風俗、光線など、生活上の四囲の環境によって、大体において青色調を非常に愛好し、特に「青金石」(ラピスラチリー)が紀元前四千五百年頃から建築に、あるいは工芸品に最もよく調和する色彩として賞美され、広く応用されるようになる。
陶磁器、ガラスも色彩としてこれに最初から憧れて作り出されたのであって、有名なエジプトの「メナーベース」の釉色もこれをまねたものである。
陶磁器の彩料は、通常の絵画に用いられる絵の具または染め物の染料などのように有機質のものではなく、すべて重金属塩の発色であって、この青釉は銅塩の発色である。またこれと相前後して応用された黄、褐色などの彩料は、鉄塩によるものである。
エジプト、ペルシャのように、近東諸国の古代文明はいうに述べるまでもないが、連金術としての金属に関する化学的な研究は非常に古くから発達しており、紀元前四世紀にはアリストテレスによってかなりまとまった化学的な仕事がされている。
陶磁器の彩料においても、古くから種々の彩料が発見され、陶工の仕事も非常に華やかなものであった。
この近東諸国の古代文明において金属として最も早く知られていたのは、金、銀、エレクトラム(金と銀との合金)、銅、青銅、鉄、鉛、錫、アンチモニー、白金の類であった。
しかし陶磁器の彩料としては主として色釉への応用であって、最も古いのは銅塩による青藍色で、紀元前約四千年の昔に応用されていたとされ、エジプト第四王朝(前2900-2750)には銅塩にマンガン塩の混和された帯紫藍色ができている。
第六王朝(前2625-2475)には濃い「インジゴーブリュー」、これもやはり銅塩の綺麗な着色釉があり、第12王朝(前2000-1788)には銅塩による灰緑色の色釉ができている。これは珪酸鉛釉に銅塩が混和されたもので、藍色調は珪酸ソーダ釉に対する銅塩の着色である。同時にこれにマンガン塩、鉄塩などが加わって黒色調の釉もできていた。
第18王朝より第20王朝(前1580-1090)にいたっては、着色釉が最も発達した時期であって、コバルト塩による紫藍色、クローム塩による緑色、アンチモン塩による鮮黄色などができており、また黄金、もしくは、マンガン塩による紫色釉ができていた。
以上エジプトを中心とした色釉沿革の概略に過ぎないが、なおバビロニア、アッシリア、ペルシャ等における彩料の応用もこれと相前後して発達している。バビロニア、アッシリアにおいて特筆すべきは失透釉(エナメル釉)の行使であって、失透は錫塩の混入によるもので、紀元前8世紀に使用されている。
またペルシャにおける、ラスター釉の行使も有名なものである。「スサ」の発掘により紀元前9世紀に既に応用されていた事が立証され、その後エジプトその他の諸国でも応用され、なお回教徒系陶磁器の全盛期には、ペルシャ、スペイン、イタリアなどでも、このラスター釉瓷の非常に立派なものが作られた。
このように紀元前の古くから近東諸地方における陶磁器に対する彩料応用の発達は著しいものであった。
東洋、特に陶磁器国としての中国においては、漢、唐時代にわたり発達していた弱陶磁器釉の彩料は近東諸国の直伝ともいうべき同系統のものであって、ここでその種類を述べるまでもないが、唐、宋代にわたって創製、発達した強火度陶磁器の色釉及び釉下彩料の応用は、中国独自の創意によるものであって、弱火性の彩料に比しこれは高火度焼成と焼成焔が還元焼成などのために安定な彩料を得るにはなかなか困難であった。
初期のものは主として鉄塩の応用であって、鉄塩は極めて手近かに得られる粘土、岩石などに混入しているものが主として応用されていた。
鉄塩の色釉としては、唐、宋代単色彩料として推奨された黒定釉、鉄銹花釉、鰻魚皮釉、玳瑁釉、龍泉釉、月白青釉など、いずれも鉄塩の彩料によるものであり、釉下顔料としては黒花紋、鉄銹花紋が鉄塩である。
鉄塩についで広く用いられたのものは銅塩である。釉としては鈞窯の葱翠釉、紅紫釉、また泥均、海鼠釉、及び炉鈞釉、辰砂手としての霽紅釉、郎釉、積紅釉などもこれに属し、釉下彩料としては釉裏藍、釉裏紅がある。
宋代末から明代初において、コバルト塩が高火度釉下彩料として用いられた。コバルト塩の弱火度釉彩料の応用は唐代既に行われ、藍三彩釉として世に知られている。
このコバルト塩の高火度釉下絵付は中国では「青花」我が国では「染付手」と称し、白磁器の絵付としては最も調和し、一般に非常に愛好されて、中国明代永楽年間以降は非常に盛んになり、中国陶磁機界の黄金時代をなした。
明代末から清代初の陶磁器の主幹もやはりこの「青花磁」であって、また朝鮮李朝、我が国の徳川初期以来の青花すなわち染付手も世に愛好され、その製作もまた隆盛を極めた。
幽青な色合いの青花(そめつけ)が清浄な白磁の釉下に磁潤を帯びて、その描画の妙趣を現わすところ、いかにも奥ゆかしく、静かな美しさが満ちみちていて浮薄な多彩瓷の及びもつかない気品がある。
東洋では一般に絢爛(けんらん)な美よりも、静寂な、崇高な美が愛される。ゆえに陶磁器においても、唐、宋時代の黒花紋とこの青花瓷が中国において創製されてからは、東洋全般にこの製作が流行していった。
東洋創製の青花瓷に憧れて、西洋で模倣されたものの中で、優秀なものにオランダの「デルフト」青花とドイツの「マイセン」青花とがある。いずれも鮮麗な青花瓷ではあるが、東洋で愛好するように静かな気品の高い美しさに乏しい。すなわち釉調が東洋のものは樹木の灰により極めてやわらかな磁潤ある釉下に幽青な色合の青花が躍如に芦原れるのに対して、「マイセン」瓷は、真白な素地にけばけばしい色調の青花が描かれ、「デルフト」は、陶器質の弱性釉下で軽薄な調子の釉下に青花されたものであるため、磁潤に乏しい。
そのうえ、青花の色も天然に各種の金属が融合されてできた中国の青花のような優雅な色調を呈していない。中国では「呉須」、「碗花」、「石花」と称えるマンガン、鉄、コバルトの復塩的な成分のものを用いているが、西洋では「コバルト」塩に磁土またはアルミナ塩を加えた純色であるため、色は鮮やかではあるが東洋の青花瓷のように幽青な味が出ないのである。
釉上に彩料を行使する事は中国の陶磁器以前では、近東諸国におけるラスター彩の方法が最初であるが、これは低火度において揮発する金属塩(銅または銀)を普通の粘土類に混ぜて調製された彩料であって、これを釉上に描画してその金属性が揮発する温度、すなわちその釉と調製彩料とが熔着する程度の温度で焼成すれば、金属の揮発分が釉中または釉上に熔着してラスターを呈するものである。冷却後にその描画された調製彩料は洗い落とされるのである。
しかしこの方法はかなり呈色が不安定であるから、近東諸地方及び9世紀以降発達した回教系陶磁器に応用されただけ止まり、中国その他東洋にはこの手法はあまり伝わってはいない。ただ清朝末期の倣均窯において軟均または馬均と称する鈞窯写しの紅斑に応用しているものがある。
さて中国における釉上彩料の応用は、唐代での強火度陶磁の創製以来、釉下彩料を施していたが、その色調の安定が非常に至難である。このため、宋代になってから低火度釉に熔剤を混和して、低火度で釉面に熔着させた方法が発見されて、色調、彩書を安定に発色するようになった。その最初のものは抹虹彩であって、我が国では通称「赤絵」と呼ぶものである。これは鉄塩に熔剤が加えられたものであって、熔剤は漢、唐代に用いられた低火度釉すなわち珪酸鉛釉である。
もし鉄塩を酸化鉄にした場合、約三倍内外の熔剤を混ぜたものであって、低火度釉の焼成熔度は摂氏800℃内外において強火度陶磁の釉上に抹紅色を焼付けられるのである。
これは唐末から宋代初期に既に行われている強火度釉上彩料としての鉄銹花紋または鷓鴣斑紋の彩料と類似の手法である。これらも酸化鉄を熔剤として、高火度釉(灰釉)を約三倍混ぜて高火度釉の焼成熔度である摂氏1200~1300℃において高火度陶磁の釉上に焼き付けるのであるから、抹紅彩の発明は恐らく、鉄銹花紋等からヒントを得て創製されたものではないだろうか。
低火度透明釉を高火度陶磁の釉上に応用する方法はこの後、抹紅彩と同じように宋代には盛んに応用され、中国では、硬彩とも、五彩ともいい、明代の正徳、嘉靖、萬暦、清代康熈などでは青花と併用して盛んに作られた。
また清初壅正年間にはアッシリア、バビロニアなどで発達した含錫珪酸鉛釉の低火度失透釉を高火度釉上に応用した「粉彩」の手法を創使した。
一面西洋では17、18世紀における化学の進歩によって、18世紀になって中国で創製された白磁器製造に成功し、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、イタリア、丁、ロシア、と相次いで生産し、機械的発達と相まって磁器生産が隆盛を極めるようになる。
その装飾としての釉下彩は青花が盛んに作られる。釉上彩としては、抹紅彩の原理を元に、西洋で化学的に考案されたと思われる金属の各種彩料に珪酸鉛あるいは珪酸アルカリの熔剤を混ぜて釉面に描画し、摂氏800℃内外で焼成熔着させた、西洋では「エナメルカラー」中国では「洋彩」と称する彩料が創製され、中国へは清代壅正末、乾隆朝にかけてその彩料が逆輸入されてその応用を見るようになった。これによって白磁器の釉面装飾が自由自在になり、世界における白磁器の需要はとみに増加するようになった。
朝鮮においては高句麗、新羅朝に中国漢、唐代の影響を受けた低火度珪酸鉛釉の応用があり、高麗朝に入りては中国唐、宋代に発達した高火度単彩釉及び鉄塩による釉下彩料の応用を見るようになる。李朝期には中国明代の影響により白磁器ができ、青花、釉裏紅のように高火度釉下彩料が自由に応用された。釉上彩料も一部に用いられたが極めて小範囲に止まりこの発達は李朝時代では見る事ができなかった。
我が国では朝鮮同様中国の影響を受けて、奈良朝までは低火度珪酸鉛釉の色釉の応用に止まり、鎌倉、足利期に入って中国唐、宋時代の単彩釉、特に鉄塩系統のものが、瀬戸、唐津系統で出来ており、釉下彩料としては鉄塩によるものが、瀬戸では「志野」の「絵瀬戸」として、唐津では「絵唐津」として出来ていた。
徳川期に入って、白磁器が李三平により有田で創製され、同時に青花の応用を見るようになった。続いて伊万里系一帯及び京都、九谷、瀬戸地方、その他各地に青花瓷の生産を見るにいたった。
釉上彩料は有田の酒井田柿右衛門により徳川期正保年間に中国の彩瓷の作成に成功し、後にこれまた、九谷、京都においても作られる様になる。
「洋彩」すなわち西洋の上絵具の応用は慶応年間に瑞穂居卯三郎氏がフランスから輸入し、初め有田においてこれを用い、その後京都、瀬戸、九谷方面にて応用されるようになる。
明治初年に京都丹山陸郎氏がオーストリアから水金(みずきん)を持ちかえり、粟田焼にて創めて用いた。
元来水金は1830年、ドイツマイセンのクーエーン氏の発明によるもので、その含金量が極めて希釈されたものである。
我が国で彩料を通称する場合、次の様に言っている。彩料としての鉄塩による黒は、「絵高麗手」といい、青花は「染付」といい、釉裏紅は「鮮紅手」といい、五彩手の釉上透明色釉は「和絵具」という。青花に金と赤絵を加えたものを「染錦手」といわれ、釉上彩料と金絵付とは「金欄手」といい、一般に釉上彩料を応用されたものは「錦手」と通称している。また釉上不透明釉の中国の「粉彩手」と称するものは「十錦手」いわれる。

