5.明清朝の銅紅釉
中国の単彩釉調のものでは、青磁と並び一般から賞翫されるものに明清の銅紅釉瓷がある。明朝宣徳の霽紅釉、清朝康熈の郎窯、乾隆の積紅釉、それに前記鈞窯の紅紫釉、雍正の炉鈞窯等がこれであり、我が国ではこれらを一まとめにして、辰砂手または辰砂窯変と賞している。
「清波雑誌」には、「景徳鎭で宋の大觀年間に青翠色になるべき釉が窯から出してみると朱紅に変わっていた。陶工は驚いて、恐らく蛍惑なる星が軌道を逸したものであると驚いてこれを打ち砕いた」とある。青翠色が朱紅色に一変するなどという事は色彩の上からはたいへんな変わり方であるから、化学を知らなかったその当時の陶工には無理からぬ事である。銅塩は釉の彩料として酸化焼成すれば青翠色を呈し、還元焼成すれば、紅紫色から黒紫色になるものである。
これら紅色釉は青磁の鉄釉に対して、銅釉系統に属するものというべきもので、呈色剤は銅塩が主剤となっておりこれが還元焔焼成によって辰砂手の釉調を現わしたものである。(彩料参照)
まず明の霽紅は、同じく宣徳年間の創製といわれる釉裏紅彩(彩料参照)と共に、宋代鈞窯の紅班の技法を真似たもので、他の単彩釉のように単層の釉ではなく、変わった種類の釉が二層または三層に重ねて使われている。
元来銅の彩料による釉は摂氏800℃以上の温度になれば、熱の上昇に正比例して銅塩の揮発する程度が多くなる。霽紅釉はこの現象を応用したもので、下層の釉に銅塩を含ませ、上層に白色もしくは淡青色釉を施して焼成すると、下層に含まれる銅塩は熱のために揮発して、ガス体となって上層の釉中に浸透しコロイド状を呈する。これが還元作用によって美麗な鮮紅色を呈するのである。
こうして呈色剤としての銅塩が一度ガス体となって釉中に入り込んだ場合と、それが固体として釉に混ざって呈色した場合と比較すると、前者の方がはるかに着色程度が鮮明である。桃花片(ピーチブルームあるいはピーチボールと呼ばれているもの)美人霽等の美詞で讃せられる霽紅手は、この場合において始めて現わされる美麗な紅色調である。
しかし一面、この種の技法による釉色は、銅塩が元来変色または退色しやすいものであるのと加え、二層、三層と異なる釉になっているため、安定な紅色を常に求める事は非常に困難なものである。かつ、この釉は宋代鈞窯、炉鈞釉、郎釉、積紅釉のように釉を通熔、流下させて紅色を呈したものとは異なり、適度の熔度においてはむしろ温調というべく光沢が乏しい。郎窯を紅宝石に擬すれば、これは紅玉というべきであろう。
さてこのように二種以上の釉を作って紅色を出す技法は、釉の行使の上において非常に興味ある問題であって、その各層釉の釉構成分と焼成法との関係如何によっては、なお随分面白い釉調のものが種々現れる。
普通、下層釉は上層釉に対し、熔融度が高い事が必要で、また下層釉には必要ないが、上層釉には構成分中に釉の熔融後に効果ある還元剤、たとえば錫釉とか、あるいは灰類のものを加味することが、紅色調を呈する上に必要である。
下層釉の成分は大体、
0.6-0.8 R2O
0.2-0.4 RO 0.6-0.8 Al2O3 5.0-6.0 SiO2
これに銅塩の含有が5%以内というところであり、上層釉は、
0.2-0.4 R2O
0.6-0.8 RO 0.2-0.4 Al2O3 4.0-5.0 SiO2
これらの配合物に樹木の灰の幾分炭素を含む状態のもの、もしくは少量の錫塩あるいは鉄塩の含有が、効果をもたらす様である。
この釉の変色については、釉が還元作用を受けた時は紅色を呈し、過度の時は暗色調を帯び、中性焔あるいは酸化焔焼成になれば紫、青、緑色となる。また熔融が不完全な時は鼠色から暗紫色を呈し、熔融過度の場合は退色して橙黄色または白色になる。
また、ひとつの現象として釉面に往々緑苔と称し、緑色または黒緑色の斑紋を生じることがあるが、これは結晶作用ではなく、釉泡による現象である。
明代霽紅釉の成分
珪 酸 73.90 カ リ 3.00
ア ル ミ ナ 6.00 ソ ー ダ 3.10
酸 化 鉄 2.10 酸 化 銅 4.60
石 灰 7.30
霽紅釉の色で、美人霽、桃花片、海棠紅、宝石紅等は前記のように鮮紅色で最上とされているものであり、黒味を帯びたものは乳鼠皮等と呼ばれ、また紫、緑、青色のかかったものは葡萄藍、蘋果緑等の名称を附して鑑賞されている。
蘋果緑は呉嬰公が「緑如春水初生日 紅似朝露欲上時」と詠じたように鮮やかな緑と、麗やかな紅とが、互いにぼかしあって、「自ら霞片」をなすと中国で形容している釉調であって、人為的には作り難い不可思議な釉の窯変である。
骨薫の世界ではこれを「アップルクリン」(アップルグリーンの調)と呼んで、中国単彩瓷の最上のものとして珍重する。
「郎窯」は清朝康熈年間、景徳鎭において、姓を郎氏という人の焼いた紅色釉である。これはもともと前記宣徳の霽紅手を模倣したものであるが原料なり技術なりが異なっているため、釉調が大分異なった調子の紅釉が焼成された。
郎窯の素地は磁胎または石胎であって、釉は比較的熔融度が低く、光沢は強い玳璃光を呈している。その赤色は霽紅の桃花片とか美人霽とかいう紅がかかったものに対して、この釉は血赤色、すなわち難血紅、牛血紅(サンデバツハ)等といった調子のもので、その釉の流化する様はいかにも鮮血がしたたるごとき観がある。窯変として藍色から緑色に変化するが、これは銅塩によることはいうまでもない。丁度、「桃花片」が変じて「蘋果緑」となれば、これは「牛血紅」変じて「緑郎窯」の緑ガラスの調子になるという具合である。
さて、郎窯赤色釉の技法は、文献には「西紅宝石の粉末」を応用したとあるが、これは南欧でできた紅ガラスの事であって、ガラスのいわゆる「銅赤」である。すなわち釉調を見ただけでも、これは従来の単彩高火度釉とは少し異なり、一種の紅色ガラスを混入した釉薬と推定できるのである。もっともこの釉の成分はよほど複雑であるからここでは判然と指示し得ないが、確かに従来の高火度釉の成分の上に、なお硼酸質あるいは鉛質のものの混入する痕跡を見逃すことができない。これについてはもちろん断言はできないが、恐らく西域あるいは西域方面に多量に産出する天然硼砂から一種のガラスを作って応用したのか、あるいはまた、紅色ガラスとして南欧より輸入して釉に応用したのであろう。
従来郎窯の案出者については異論が多い。文献上よりすれば、郎氏とは第一に、康熈年間に江西巡撫に住む広東人の郎延極、字紫衡という人であるとの説、あるいは康熈の官内府中烝、郎紫垣であるという説、またこの紫衡と紫垣とは同一人物であるという説もあり、これに、西洋美術の紹介者として有名な郎世寧との説等、種々の説があって未だ定説とされるものがない様であるが、ここに上記のように技術的に見て、これが南欧の技法に倣ったものとすれば、時代的に少し齟齬(そご)を来たすが、郎世寧とみるのが最も都合よく説明がつく様である。
「積紅」は、この種の辰砂手として以前は郎窯の一種とみなされていたが、近来景徳鎭では技法上により、郎窯と区別して呼んでいる。
普通、銅塩による紅色釉を焼く場合、還元焼成とすべきものが、素地土の成分の如何によって、往々酸化作用を起し、紅色調を出す事を妨げる場合がある。これは素地に含まれる粘土質分が混合水及び化合水を発散して銅塩を酸化させるものであって、換言すれば、素地がある程度硬化するまでは、釉の還元作用が行われない。故に一度磁化した素地にこの種の釉を施して焼成すれば還元作用は完全に行われ、釉の変色も少なくなる訳である。乾隆以後の辰砂手の釉はこの技法をとって、一度磁化するまで焼いた素地に釉を施した。すなわちこれによってできたものを積紅というのである。
かくして積紅手の紅色調は至極安定には出るが、霽紅、郎窯のように素地と釉とが熔け合って出ている様な深い味わいとか潤いといった調子がなく、また蘋果緑とか、緑苔などの現出もなく、釉光も乏しく、郎釉の宝光に対し、積紅は浮光というべきであろう。釉色も牛血紅調で光沢の少ないものが多く、釉の流下も少ない。釉の成分は炉鈞の紅紫釉に近い。
広東郎窯は広東石湾にある倣郎窯で、その釉はあくどい朱紅色を呈し、熔融度も他に比べて低く、辰砂手では最下等に属するものである。それに素地質が灰黄色の炻器素地であるから、一見して他の辰砂手と区別することができる。
このように、中国における銅赤釉(鈞窯、霽紅、郎窯、などの辰砂手)は宋代に端を発し、明、清代とそれぞれ真技法を決め、最も至難とする銅による鮮紅の釉調をいとも簡単に現わしていた事は、後年陶磁学会において驚嘆とするところであって、欧米においてもこの研究にが各方面にて研究された。
1848年、L.A.Salvetatにより中国明代霽紅釉の化学分析がなされ、(前記)酸化銅は高温度において揮発しやすいから、調合に際しては必要な銅分よりも多量の銅塩を必要とする事がは発表された。Th.Dickはパリにおいて、A.Buen zuliはオランダにおいてこの研究に従事し、1879年、フランスのセーブル製陶所において、Ch Yauth及びDutailly は Salvetatの研究を継承して、「銅赤釉は酸化錫の存在により強度の還元焔によって出現するものであり、酸化銅は金属銅が還元され釉薬中に溶解し、暖冷によって呈色したものである。」とその研究成果を発表した。
これに対し、ドイツの Seger博士は「釉薬の赤色は強度の還元焔焼成のみによるものではなく、還元焔と酸化焔とを交互に繰り返すことが必要であり、呈色に最大影響を与えるのはむしろ焼成雰囲気で、焼成ガスが適当な組成にある」と称え、そして「酸化銅は0.1~0.15%の時の呈色は暗赤色を呈し、0.5~1.0%の時は鮮赤色を呈する」ことも説き「一旦還元した金属銅を酸化第一銅にするため、2.0%以下の酸化錫、あるいは酸化鉄を添加することにより赤色の出現が容易になるものである」また「釉の組成をバリウム釉としたものは真紅色を得るに便利である」事を述べている。
我が国でも、京都大学の吉岡藤作教授及び京都工業研究所の高野忠氏の辰砂釉の研究及び、村山鉄造氏の研究によっても「バリウム釉」の効果を明示されている。
なお銅赤釉の釉薬の表面のみを還元する事により赤色を発現する方法として、釉薬の熔融した後、油類、ガスまたはおが屑を使用して還元焔を生じた後、マッフル窯中にて再び焼成して鮮紅色を呈することを Seger,Zolnay が研究発表をして、英国の「ロイヤル、ダルトン工場」にて盛んにこの種製品を出している。
また、フランスのフランチェット氏は「アルカリ鉛釉薬において、銅よりも酸化錫が多量に含有する場合には呈色作用が良好で、還元焔で焼成した後に酸化焔で処理したものが良果を得た」事を発表した。
またハーダー氏は「釉の組成分の中に「カーボランダム」を含有して酸化焔焼成しても銅赤釉を得ることが出来る事」を発表している。
要するに、辰砂釉のような銅赤釉は、焼成中に還元焔によって釉薬中に懸遊する金属銅が赤色を発色するためには、釉薬の成分のみによるものではなく、その焼成状況との関係が非常に密接なものであって、ことにその還元の程度がもっとも肝心な事柄である。
6.南方窯系の鉄釉
建窯系の鉄釉は我が国では天目手と呼ばれて古来茶道においてもっとも仔細に鑑賞され、この鑑賞についての文献もずいぶん多数に上っている。
大体において、宋代単彩釉として全般的にもっとも古くかつ広く応用されたのは鉄釉の類であって、この建窯の鉄釉を初めとして、北方の黒定窯、鉄銹花釉すなわち我が国でいう鉄砂釉、芝菻醤釉(柿釉、シブカミ釉)それから吉州窯の褐黄釉すなわち玳瑁(たいまい)釉(飴釉に「卯の斑釉」を併用、べっこう釉)明清では廠官窯の茶葉末兒釉(蕎麦釉)等、その種類は非常に多い。
前述の越州窯及び虎州窯系の青磁釉も鉄による色釉であるが、その鉄の含有量は非常に微量である。これに対しここでいう鉄釉は何れも釉量の一割内外の鉄分を含んでいて、その釉色も非常に鉄錆の色に類似しており、同じ鉄釉系でも全然趣を異にしている。
さて、建窯の鉄釉は、単に鉄分の多い土石に樹木の灰を混ぜて作られたもので、釉の組成分としては最も簡単なものである。そして素地も鉄分の多い黒褐色の堅徽な鉄胎であり、これに施された釉が黒色の鉄釉であることから、その出来上がりは非常に重厚古雅な味に富んだものとなっている。すなわち烏泥窯と名付けれたためである。
ところで、窯の焼成技法は存外に幼稚であり、温度の均一などあまり問題視されないため、焼成の際の釉調の変化が非常に多い。我が国ではこの変化が多い天目手の釉調について、
曜変(ようへん)天目、油滴(ゆてき)天目、星天目、禾目(のぎめ)天目、烏盞(うさん)天目、黒天目、薊(あざみ)天目、虹天目、夕日盞、柿天目、黄天目、蓼冷汁天目、灰被(はいかつぎ)天目、
その他種々の名称を附している。今ここにこれらについて一々論ずる事は中々容易な事ではないから、その中最も一般的なものについて二三述べて見よう。
健窯天目茶碗の中で最も一般的な釉調は建盞、すなわち禾目天目であろう。禾目天目の釉の構成分は大体、
0.3-0.4 R2O 0.2-0.4 Al2O3
0.6-0.7 RO 0.15-0.2 Fe2O3 2.0-3.0 SiO2
これに燐酸分が微量含有し、彩料としての酸化鉄は釉料の1割内外入っている。焼成火度は禾目状の釉調となるためには1300℃以上の温度で焼かなければならない。これは比較的高火度の方で、他の烏盞天目、黒天目、黄天目はずっと焼けが鈍いのである。禾目天目の釉は上記の成分の上からみて、熔融の際、火度が高い時点で素地に接した釉が素地と熔けあい強くなり、接していない表面の釉が熔けて流下し「ナダレ」を作り、失透作用及び結晶作用を起して、ここにいわゆる兎毫紋(とごうもん)を現わすのである。(兎毫紋の起因は後述する)
次に天目茶碗として、古来最も珍重されている曜変天目及び油滴天目がある。曜変天目については、君台觀左右帳記に
「建盞のうちの無上也、天下におほからぬものなり、萬匹のものにてそろ。」
とあり、また博物館本には、
「曜変は建盞の内の無上也、世上になきものなり、地いかにも黒く、こきるりうするりのほしいたとあり、また黄色白色こく、うす黄るりなど色々まじりて錦のやうなる薬もあり、萬匹のもの也」云々
等といっている。
また、今泉雄策氏は曜変をさらに細別して、「曜変、芒変、芒曜とし、曜変は真黒あるいは紺青地の釉に九曜、七曜のごとく所々に花紋あり、その点の色は紺青、紅等の暈(かさ)をなす。芒変は曜変と同質にして花紋をなさず、器の内外に縁より底に向かって禾目のごとき紋ありて、一に曜変のごとく虹色を現わす。芒曜は芒変との紋を共有す。云々」と説き、また曜変なる字に対しては、「元来中国には窯変の字があって曜変の字をなし、されば曜の字は仮借にして窯の字正しく、星のごとき点の現れたる窯変のものあるよりして、曜変の字を当てたるものならん。」と言っておられる。
次に油滴については、君台觀左右帳記に
「曜変の次、これも一段の重宝也、上々は曜変にも劣るべからず、五千匹」。
「第二の重宝これも地薬いかにも黒くて、薄紫色のしらけたるほし内外にひたとあり、曜変よりは世にあまたあるべし、五千匹」とある。
世に油滴盞と称えらるるものには、黒色または黝黒色の釉面に銀色を呈した小円暈の現れるもの、または金色を帯びるもの、あるいは黝黄色の円暈を呈するものとしているが、これはまた別種のものでなければならない。
曜変及び油滴の星紋、花紋の成因には、釉の泡によるものと、結晶によるものの2種の場合がある。また釉光に虹光あるいは金属光彩を呈するのは釉の中に微量のマンガン、銅、タングステン等を含有し、これらが焼成焔に作用されてできるものである。そして通常これらのマンガン、銅、タングステンは鉄鉱に常に混じって来るものであるから、建窯釉の彩料としての鉄鉱またはその分解した含鉄土、石等は自然そのままでこれらを含有していたと推察できる。
しかし、曜変の花紋の調子を詳細に観察すると、天然に窯の中で出現したものでなく、南殴のラスター釉の技法と同様の、焼き上げた強火度単彩釉の上にオイル溶きのラスター軟火釉で、釉面の虹彩及び花紋を描き、楽窯程度において焼付けさせたものと観察できる。著者は実験してほとんど同一結果を得た。
油滴等の様に釉泡に起因して花紋の状態を誘起させたものは、釉の粘性の強い組成による事と、焼成の際の熱の上昇が熔融に際し急激な場合に多くこの現象を呈するものである。
ところで、上記油滴釉で、油滴としての銀色がかった星紋は、実は建窯のものには少なく、むしろ北方の窯に多い。ことに山西の霍州窯、すなわち現在の太谷窯の黒釉器にこの星紋の現れているものがよくある。洛北大徳寺龍光院所蔵の国宝油滴天目も山西産のものである。
この銀色の星紋は鉄の流下作用によって起こる結晶で、通常、釉の「スターリング」とも「サルファリング」、あるいは「フィザーリング」と技術的に呼ばれており、下記真のような状態である。
甲:鉄釉の「スターリング」作用による花紋
乙:(Ⅰ)は太谷窯の油滴の釉調である。
乙:(Ⅱ)は、景徳鎭で、乾隆朝に焼かれた、鉄花釉(我が国の鉄砂釉と称する釉)の完全結晶した釉面
乙:(Ⅲ)雍正朝の白瓷素地の上に施された、「鱚皮線」釉の結晶面を撮ったものである。
また、全く釉泡の様に感じられるものと、放射線状の結晶を呈する場合とがあり、その銀色も焼成焔の作用によって黄金彩を呈する場合もある。これは釉の原料にもよるだろうがまた、燃料に起因するところも多い。すなわち建窯のように薪材焼成の釉においては硫黄分の作用は少ないが、北方の粉炭を燻化焼成する窯では、その焼成焔に硫黄分をかなり含有することから流化鉄塩の析出によるものがこの現象を呈しやすいのである。これらの釉についてはもっと突っ込んだ説明をしたいのであるが、あまりにも専門的になるから詳細の事は不日の発表で行いたい。
なお烏盞天目、黒天目以下のものは、その釉の成分については特に記するほどのものを持っていないが、ただ烏盞天目、黒天目は釉の熔融後早く冷めたものであり、柿天目、曜変天目、蓼冷汁天目等は徐々に冷却されたものである。また薊天目、虹天目、夕陽天目は曜変、油滴と同じように焼成の際、特殊な焔の影響を受けたものであり、灰蒙天目は直接焼成焔もしくは灰がかかって変調を来したものである。
なお建窯とは別に、天目手の中で江西省吉安和鎭、すなわち宋代吉州窯の玳皮盞(たいひさん)、鼈盞(べっさん)、永和盞がある。この釉は一名玳瑁(たいまい)釉と称されるものであって、あたかも玳瑁、鼈甲(べっこう)の色沢を彷彿とさせる釉調のものである。これは鉄分が比較的多い芝麻醤釉(後述)を下釉として素地の上に全面的に施すか、あるいはところどころにて挿書するか、または部分的に剥がしとってから、その上に薄鉛色の失透釉を施すことによって亀甲のような調子を出したものである。
(芝麻醤釉について後に記述するが)その飴色失透釉の組成分は、
0.1-0.2 R2O 0.2-0.3 Al2O3
0.8-0.9 RO 0.1-0.15 Fe2O3 1.5-2.0 SiO2
及び少量の燐酸が含まれるものである。
さて少し余談になるが、前述の天目手は、元来中国では大衆向けの雑器であって、実は至極下手なものに属するものなのである。その中、最も多く作られたのは、碗、盞の類で、中国では老酒の杯として用いられたのが、我が国に伝わると抹茶碗として珍玩された訳である。そして建盞には老酒の一斤入りのもの、半斤入りのものが多く作られていたが、我が国に渡来して、抹茶碗に応用されたのは大部分この中の半斤入りのものである。
中国ではこれが酒盃として用いられる所以(ゆえん)は、その黒い色なり、釉調なりが老酒すなわち紹興酒のように、不純なよどみからくる不快な色合をうまく消して調和する事と、形状が圧手型となり、受け口となっているのは酒の「濁り」を取るために便利なものであって、あくまで実利本位に作られたものが一度国情を異にすれば、全く気分の違った用途に供せられるのはいかにも興味ある事柄といわなければならぬ。

