ここに、中国強火度単彩釉の主なものについて略述して見ると、

1.白色透明釉
 白色といっても、宋、明のものは全て草木の灰を熔剤とした釉であるため、純白釉ではなく、灰白、青白、黄白、牙白釉である。
 大体の組成は
       0.2-0.5 R
       0.5-0.8 RO     0.3-0.8 Al   4.0-7.0 SiO
     ROはアルカリ塩であってカリ、ソーダとする。
     ROはアルカリ土類塩であって、石灰、もしくはマンガンとする。

 前述したとおりアルカリとアルカリ土類の比が、アルカリが多い場合はまず光沢の上において「曇り」が出やすく、また釉の貫入が出やすい。アルカリ土類の多い場合は艶消作用を起すと共に熔融度を高める。中性塩としての礬土が少ない場合は釉の粘性(ヴィスコシティー)を少なくし、熔融度を低め、結晶作用及び失透作用を起す。中性塩の多い場合はこれと反対に粘性を多くし、安定な釉となるが、熔融度が高くなるのと泡の取れにくい欠点がある。酸塩として珪酸が少ない場合は艶消状態となり、多い場合は熔融度を高め、同時に粘性を少なくし、失透作用及び結晶作用を起すものである。
 饒州窯すなわち景徳鎭系の白釉は、白磁器発祥の窯であり、歴朝の御器場が置かれ、明清朝より現代に至るまで、中国陶磁の主産地であるため、白釉の変遷はかなり多種に及んでいる。詳述する事は複雑になって無益と思うので、その大略を述べると、

 白色釉として、饒州窯、景徳鎭窯において用いられたものは、大体次の様に分けて考察すべきであると思う。
 1.唐宋時代の白磁器初期の釉
 2.明代初期青花に用いられた釉
 3.宣徳年間の釉裏紅に施された釉
 4.嘉靖、萬暦の五彩の下釉
 5.雍正の白釉
 6.乾隆以降の白釉

 1.唐宋時代の強火度釉の白釉としては、その当時最も良質の釉調であって、熔融度も高く、還元焼成であるため、釉は青白調であるが、釉光も釉沢もよく、素地の未だ醤胎の際は部分的に貫入が出て、温雅な釉調であって、数奇者間に「饒州」(ニョジュウ)として賞美されている。なお、磁胎完成後は特に釉調が良くなった。組成は次のとおりである。
       0.3-0.4 R
       0.6-0.7 RO    0.3-0.5 Al   4.0-6.0 SiO

 2.明代永楽年間以降は、青花磁が盛んに製作される様になり、釉下顔料としての青花彩料との調和、及び御器場が隆盛となり、焼成窯が変更され、焼成火度も高くなったため、釉の組成も変わってきたと考察される。釉調では釉光が幾分鈍くなったが、釉沢がよく、釉色はなお青白色調を呈す。組成は、次のとおり。
       0.3-0.4 R
       0.6-0.7 RO    0.3-0.6 Al   5.0-7.0 SiO

 3.宣徳年間に至り、霽紅釉が現れ、釉下彩料として、釉裏紅が用いられるようになった。これはその当時非常に推賞されて製作が盛んになった。釉裏紅を鮮明に出すには、釉の組成及び焼成状態によほど注意を払わねばならないので、釉裏紅応用の釉は永楽年間の青花の釉と大分組成が違っている。この釉はあまり熔け過ぎる事を好まない。故に釉の熔融温度が高くなりかつ釉光、滋潤(じじゅん)も少ない。組成は、次のとおり。
       0.4-0.6 R
       0.4-0.6 RO    0 .5-0.7 Al   5.0-7.0 SiO

 4.正徳、嘉靖、萬暦年間に至り、釉上彩書として、五彩の応用が盛んになった。五彩釉は一名「硬彩(こうさい)」とも言い、一種の色ガラスを磁器釉上に熔着させる方法であるから、下釉と上釉との熱に対する関係がなかなか難しい。
 これまでの従来の釉とは組成においても、磁器釉の性状、焼成状態においても変えられなければならなくなり、釉の熔融度も高くなり、釉光、釉亮も鈍くなった。
       0.5-0.6 R
       0.4-0.5 RO    0.5-0.7 Al   5.0-6.0 SiO

 5.清朝に入り、特に雍正年間になってからは御器場としては白磁器の精器を作る事に特に力を入れられたため、釉の性状については非常に吟味され、釉光、釉沢、釉亮、釉の白色度に注意し、釉の欠点としての釉泡、伸縮などがなく、白釉として完璧に近いものが研究応用されるようになった。
       0.3-0.4 R
       0.6-0.7 RO    0.5-0.7 Al   5.0-7.0 SiO

 6.乾隆年間に入り、白磁として最も精器というべき脱胎磁の製産が盛んになり、一面、欧州陶磁界の化学的研究の影響も受け、従来釉科としてアルカリ土類を取るために、主として樹木の灰を用いていたのが、石灰石、苦灰石を応用することにより純白色の釉を得る事を知って、灰を余り用いない石灰質白釉の応用を見るに至った。
       0.2-0.3 R
       0.7-0.8 RO   0.4-0.6 Al  4.0-6.0 SiO

 なお、景徳鎭の白釉の種類は、時代的に、品種的に、また経済的に色々な種類に及ぶが、基本流ともいうべき、御器場系白磁器の上記系統の大要を述べて、この稿を止める。

「定窯の白磁」。定州窯の白瓷に普通粉定と呼ばれている。この釉の成分は、
       0.2-0.3 R
       0.7-0.8 RO   0.3-0.4 Al   3.0-4.0 SiO
 この釉は、焼成火度は饒州窯に対して少々低く、かつ酸化焔で焼かれるため、釉色は帯黄、帯紅の白色である。閃紅、閃黄、あるいは米色といわれるものが粉定の良質とされている。素地土は半磁器素地のものが多い。磁州窯他の北中国の白色釉は総べてこれに準ずるものであるが、多少色のついた素地土には一般に白色土をもって化粧掛けしてこの釉を用いている。

「建白釉」は福建徳化窯の白瓷に用いられた釉を指す。
       0.2-0.3 R
       0.7-0.8 RO   0.2-0.3 Al  2.5-4.0 SiO
 この釉の成分は越瓷の釉に類似したもので、釉光が非常に良い。
 なお徳化窯は初期すなわち明の中期頃までは酸化焔焼成であったため、釉色は定窯と同じく、閃紅、閃黄、米色であって、釉光が非常に良く、往々真珠光を呈するものがあったが、こらが明末より清初になると、窯の構造及び燃料等の変遷によって淡青色の白釉に変わった。要するに当時の景徳鎭の白釉に類したもの(釉光においては景徳鎭のものよりも鋭い)が焼成される様になった。普通前記閃紅手乃至閃黄の酸化焔焼成であるものを「建白」と称し、淡青色のもの及び景徳鎭窯の白釉を「填白」と呼んでいる。

「碎器窯」。これは江西永和鎭吉安の白瓷である。成分は、
       0.7-0.9 R
       0.1-0.3 RO   0.7-0.9 Al  6.0-7.0 SiO
 この釉は、元来粉青色の哥窯を倣ったものであって、釉に開片が多く一名「百汲碎」ともいわれる。釉光が割合に鈍く、釉泡が非常に多い。我が国では瀬戸の志野釉と同類と見る事ができる。主として長石を主成分とした釉であり、焼成火度は建白と大差ない。中性焔焼成である。

2.「越州窯系の青白釉」
 唐代に今の浙紅省紹興府の付近で陶瓷が焼かれた。これを越州窯と称え、その釉色は「千峰の翠色を奪い得て来たもの」と陸亀蒙が賛美した青器で、古来珍玩おく所を知らなかったものである。この系統のものとしては呉越の秘色窯、南宋修内司窯の青白磁、福建省の青磁等を挙げる事ができる。呉越の秘色窯は始めは越州であったが、南宋の時に寧波に近い餘姚に移り、明代の初めに至ってついに聞かれなくなってしまった。修内司窯は南宋の官窯として鉄骨胎の青瓷を作ると同時に、この種の青白磁の器皿も焼成されている。なお紹興府にあまり遠くない場所では、多分この種の青白磁がいたる所で焼かれたものと思われる。
 越州窯系青白磁の構成分は、次のとおり。
       0.2-0.4 R
       0.6-0.8 RO   0.2-0.3 Al   2.0-3.0 SiO
 この釉の組成において、色々と考究しているのであるがその中で、アルカリ土類の中に亜鉛塩の混入を推察しえる点がある。すなわち浙江省、越の地方より白土状をした硅酸亜鉛(カラミン)の算出があることと、鉄による釉色が亜鉛塩の混入を認められる性状を有する点からしても、このように推察し得るのである。また、秘色瓷が秘密にされていた点はこの釉科にも存すると認められる。
 この釉の性状は溶融度が比較的低く、粘性が少ないために焼成上の欠点が起こりやすい。この釉がガラスのように透き通っているのは、その成分にもよるが、初期南方窯の構造上、焼成における温度上昇が急であるのと、冷却作用も急激な為である。もしこれが北方窯のように上昇冷却とも緩慢な窯であったならば、このような成分のものは全て鈞窯手の様な失透作用を起こすであろう。
 これら青白器の呈色はいうまでもなく鉄塩によるものであって、すなわち第二酸化鉄を釉の総量の百分の一以下で含有するものであるが、元来鉄による青釉は釉が溶融前より還元焔焼成にしなければいけないものであって、窯が通風の最もよい状態に置かなければならない。故に越瓷においても、陸亀蒙が詩に読むが如く、「九秋風露越窯開」云々とあり、秋の大気の最も希薄にして通風のよき季節に千峰翠色の清澄な瓷を得たのであろう。
 また越州窯系の青瓷に比し、非常に気品のある釉調で装飾品としても、実用品としても、最上の釉であるが、溶融の際の粘性が少ないために、焼き上げが結構難しい。往々透明性の釉面に微細な淡灰色の結晶紋が現れて来る事があり、これを梨皮紋と読んでいる。
 宋の大觀年間に官窯が河南の開封府より浙江の杭州に移り、修内司窯としてこの青白瓷の逸品を盛んに焼出した。よってこの釉を一名「大觀釉」とも読んでいる。寄与清代雍正の頃、督陶使唐英などがこれを倣って大いに研究し、大觀釉器として作品を出しているが、釉調においては遠く及ばない様に思う。